深い浅草。 <後編> 『鰻と重箱の関係』
<前編>『解体新書とコツ通り』に続いて
今日は『浅草は田中教授の源なり』の、
食のお話。
日本のいろんなところにある、
江戸から連綿と続く名店。
浅草発祥のお店も、
もちろん、たくさんあります。
そんな歴史散歩へどうぞ〜。
小塚原繩手の歴史散歩に驚かれた方もおられると思うので、
趣向をかえて口直し。
江戸から明治・大正時代の味処、
「浅草繩手」、「山谷通り」をとり上げてみたい。
天下に知られた吉原遊廓。
隅田河岸には功成り名遂げた人の高級別荘地が並び、
その間にある「山谷」が、食の街として発展したのは当然の事であった。
永井荷風、最初の妻との賀宴が料亭「八百善」。
当代一の名店は、文人墨客宴の場。
広重の浮世絵など、多くに描かれた…。
《江戸前》という言葉がある。
それは本来うなぎの事を云う。
今回はそのうなぎの寝床話。
―――江戸文政の頃、
千住の川魚間屋「鮒屋新兵衛」のもとで勤めあげた儀兵衛は、
やがて山谷に「鮒儀(ふなよし)」という鰻料理屋を構えた。
敷地に重箱稲荷という祠があり、
店が繁昌するにつけ、
客は鮒儀とは云わず『重箱(じゅうばこ)』と呼ぶようになった。
鮒屋儀兵衛には子供がなかったので、
しかるべき人の世話で跡継ぎを貰った。
紀州様ご家老の落とし胤(だね)ということだったが、
実は紀州様直々の胤と分かり、恐れ多いことで…
儀兵衛は葵の紋のついた提灯だの門艦(もんかん)を賜り、
紀州家御用を仰せつかる。
ところが高貴な二代目さま、最初はちやほやされたが、
打扇(うちわ)パタパタさまにならない。
商売気さっぱり、これではいかぬと勇退を願い、
下総流山の名主の息子「菊造」を三代目に迎えた。
時は江戸から明治の激動期。
見事な働きぶりで立派に暖簾を守った。
菊造には「おたか」という一人娘がいて、
自分が見込んだ甥に妻合(めあわ)せ、四代目にした。
厳しく仕込み、やがて包丁さばきは東京一の職人となる。
その上研究心が旺盛で、
今も生息域をはじめ、分らぬことが多いうなぎだが、
秋大雨が降ると川の上から下へくだってくる。
それを「クダリ」と呼ぶが、
中に卵らしいものをハラに持つものがいる。
その雌雄を発見して水産講習所の神谷先生に報告、
新聞には「世界で初めての発見!」と騒がれ、
「さかな君」のような時の人になった。
―――久保田万太郎の小説やエッセーには、
明治・大正の江戸の面影を曵く、
静かでしっとりした「山谷」の情景を味わうことができる。
「電車通り」の景色は以前の通りである。
震災まえと同じである…とはいっても
一つだけ違ったものがある。
黒い品のいい高塀と深い木立のもと、
「八百善」がなくなったことである。
…でも、「重箱」はまだ残っている。
久保田万太郎の回想を、田中教授がちょっとご紹介。
今から25年前、小学生の頃の話であるが、
「うちで器械体操をこしらえたから来ないか」と、
学校の帰りに大谷平次郎君に誘われた。
器械体操とは鉄棒のことである。
浅草小学校の同級生大谷君は、
やがては山谷「重箱」の五代目を継ぐことになっている。
それから毎日、大ぶりだの中ぶりだの海老上りだのと、
家へ帰るのを忘れるほど夢中になった。
平ちゃんは学校ではいつも一番でずっと級長をしていた。
卒業式ではハカマをはいて答辞を読むって具合に…。
それでいて下校すれば店を手伝っている。
やがて明治42年頃だが兵隊にとられ
市川国府台野砲16連隊に入った。
意地の悪い分隊長にコヅキまわされるのが嫌で、
一計を案じ、一緒に山谷に出て我が家で一ぱい飲ませたら、
「喰いもの屋とは聞いていたが、お前の店は大した構えだな…」、
それ以来風当りが変って、
二年目には☆☆☆と、トントン拍子に出世した。
つくづく軍人も所詮は人の子なんだなぁーと。
――そんな時、忘れもしない明治44年4月9日昼前、
休みを貰って浅草奥山の「萬梅(まんばい)」で、
馴染みの「おしげ」さんとチビチビやってたら、
“吉原が火事だぁー”、半鐘の音。
なあに昼間の火事じゃ廓からでるまい、と
高を括ったら山谷が風下に変り千束の空は炎と煙。
“しまった!!”
目塗りの蔵を残して店はまっ黒無残!
跡形もなくなった。
その後の踏ん張りは、
本普請と除隊が重なる幸運に恵まれて「重箱」は再建された。
だが良き時代は短かく、大正12年9月1日、
またもや昼前、“グラグラ”と関東大震災にヤラレタ。
東京一面、山谷は焼野原。
隅田川がしらじらと波をあげ、別荘地は全滅。
昔の浅茅ヶ原に返ってしまった。
…八百善は未練なく、山谷を去って行く。
でも、「重箱」は安普請でも翌春には店を開けた。
人情と舌は、地震ぐらいじゃ滅びない――。
――そんなある日、四代目の父がお世話になった
水産講習所の神谷先生からの手紙を持って、
大手開発会社の人が訪ねてきた。
熱海の自社地に温泉が出て大いに発展する。
「土地は無償で提供します。
神谷先生が〈うなぎは「重箱」に限る。〉とおっしゃって…。」
震災後の山谷の変わりようもあり、熱海出店を決意する。
当時の新聞に
<此の度、うなぎ「重箱」山谷に見切りをつけ、
熱海に店を出すと云う。江戸から明治の文化の形見が、
新興勢力に征服されゆ姿は、決して愉快なことではない…。>
贔屓も東京にあってこそ、素材と技術を信頼してくれる。
…やがて、東京に戻り赤坂二丁目に開いた「重箱」。
暑さも一段落した9月に訪れた。
山谷時代の想いは、
玄関に掲げられた古色蒼然の筆紙額『山谷重箱・鮒屋儀兵衛』が物語る。
そして、“素材ありき”が、重箱代々の家訓。
静岡大井川の伏流水で二年かけて育てられたうなぎは、
一般に持たないと言われる卵巣が発達して、
甘味と旨味が絶妙のバランス。
百八十五年の伝統技に言葉がなかった。
<文・イラスト 田中けんじ>
鰻と重箱の関係…。
関係あるような、ないような、
でも関係深いような…不思議なお話。
ドーミーインも、
土用の丑の日には、
朝食で鰻をお出ししているので、
「鰻」と聞けば
ついつい身を乗り出して聞いてしまいます。
重箱さんの当主は現在八代目。
185年の軌跡、
すごいなぁ…
世の中ビジネスホテルもたくさんありますが、
料理人が受け継いでいく老舗のように、
「ドーミーインは、何代になってもDOMINISTAが作ってるからいいね」、
なんて言われるように、
DOMINISTA一同、楽しく精進して参ります。
それにしても、浅草、深い…